新聞折込広告史
概説(2) 昭和初期の新聞折込広告
はじめに
前回の大正時代に引き続き、今回は昭和時代初期(昭和元年〜昭和10年)の新聞折込広告を採り上げる。1923年(大正12年)9月1日に発生した関東大震災、東京・京浜地区に大災害を起こしたが、新聞折込広告というメディアにとっては活躍の場になり躍進する。百貨店を代表する小売の帝都復興を謳い顧客層の確保に向けた広告活動で、新聞折込広告は売出しメッセージを素早く伝えると言うメディアの特長である速効性などが見直される。メディアの役割が確立された時期でもある。その後、時代は金融恐慌から1929年(昭和4年)10月24日“暗黒の木曜日”に突如起こったニューヨーク・ウォール街の株式大暴落、世界大恐慌の波が日本にも押し寄せる。同時に1931年(昭和6年)や1934年(昭和9年)の東北地方を襲った冷害も悲惨な結果をもたらした。1931年(昭和6年)9月に満州事変が勃発し、日本は軍国主義ファシズムに向かって行く。
前回同様に、新聞折込広告の広告メディアとして成立条件である新聞、新聞を配る販売店、新聞の読者、読者にメッセージを伝える広告主、折込広告会社などを参考文献(下記記載)や折込広告研究家の増田太次郎氏著書を眺めながら調べ紹介する。
新聞について
世の中の動きを伝える新聞も昭和初期にもなると安定する。しかし安定に至るまでの間、新聞界は紆余曲折する。関東大震災が起こる前は五大新聞の時代と呼ばれていた。「報知新聞」「時事新報」「國民新聞」「東京朝日新聞」「東京日日新聞」の5紙だが震災により経営に大きな変化をもたらす。焼け残った「東京日日」と「報知」は号外などを発行し勢力を伸張する。「東京朝日」は全焼したが、「大阪朝日」からの援助により「震災後3日目だったが、大阪から軍艦で芝浦岸壁まで運ばれてきた大阪朝日新聞を積み荷おろしに行った」という販売店主の発言にあるようにスピーディーな支援活動で復活発行した。震災前は東京で生まれた東京の新聞が優勢であったが、震災後は大阪系の「東京日日」や「東京朝日」の躍進に変わった。同時に販売面も、ほぼ専売に近い体制が整えられた。この事は、折込広告にとっても新聞銘柄指定や地域指定を可能にし、媒体価値を高めることになった。震災後の1924年(大正13年)の全国の新聞総発行部数は、推定で1日平均約625万部、対人口普及率は9.28人に1部であったが、10年後の1934年(昭和9年)には、1日平均約1080万部に達し、対人口普及率も6.16人に1部、世帯構成人数を仮に平均5人とすれば1世帯に1部弱の割合まで高まっている。
余談だが、新聞休刊日の設定は昭和4年9月に年3回(毎年1月2日と春分の日翌日と秋分の日翌日)と決定された。
新聞を配る主な新聞社販売網の東京市内実状を紹介する。「東京日日」は直営出張所制度で社内に管理課を置いて統轄し、昭和5年1月発行部数119万6000部に達した時、市内出張所で45万4000部を扱う。その後に出張所を増設し合計175ヵ所に達した。「東京朝日」は直営所を置かずに岩月新聞舗に委託し、その他専売所入れ市内販売店の数は143ヵ所。「報知」は直営制度(分局)で一部専売店と合わせて132ヵ所。「時事新報」は社営と自営とに分かれ計132ヵ所。「國民」は直営出張所57店と売捌店、専売所を合わせて114ヵ所。「讀賣」は直営出張所を原価制度の専売店に改め88店。
新聞のページ数と月極め定価を調べる。「東京日日」は昭和11年12月に時事新報を吸収し、昭和12年元旦の有代発行部数は143万2185部。朝刊8ページ→10ページ(昭和8年時)→12ページ(昭和9年時)→10ページ(昭和10年時)、夕刊4ページ→日曜も発行(昭和8年時)→8ページ(昭和12年時)。月極め定価は1ヵ月1円→90銭(昭和6年時)→1円(昭和10年時)。「東京朝日」は朝刊8ページ→10ページ(昭和7年時)→12ページ(昭和9年時)、夕刊4ページ(日曜夕刊なし)→8ページ(昭和12年時)。月極め定価は1ヵ月1円→90銭(昭和6年時)→1円(昭和10年時)。「報知」は朝刊8ページ→10ページ(昭和8年時)→12ページ(昭和12年時)、夕刊4ページ→日曜も発行(昭和9年時)→8ページ(昭和12年時)。月極め定価は1ヵ月1円。「國民」は朝刊8ページ→10ページ(昭和8年時)→8ページ(昭和10年時)、夕刊4ページ→6ページ(昭和4年時)→日曜夕刊を4ページに(昭和5年5月)→平日も4ページ(昭和6年時)、昭和8年時には日曜付録「少年少女」タブロイド8ページ(〜昭和10年時まで)。月極め定価は1ヵ月1円→85銭(昭和5年11月から)→90銭(昭和8年時)→75銭(昭和10年時)。「讀賣」は総合編集面を2ページにし、経済面を独立、歴史ある婦人家庭面を拡張し家庭新聞としてPR、さらにラジオ版を付録とし、日曜夕刊も発行、スポーツ記事も売りに。昭和6年の満州事変より夕刊も発行、昭和9年10月には東京市内で部数トップ。朝刊8ページ→10ページ(昭和6年時)→12ページ(昭和10年時)、ラジオ版2ページ(昭和5年時まで)、日曜夕刊4ページ→6ページ(昭和5年時)→8ページ(昭和6年時)→平日の夕刊も発行4ページ(昭和6年時)→日曜平日とも8ページ(昭和11年)、月極め定価は1ヵ月80銭→90銭(昭和7年時)→1円(昭和12年)。
時代背景について
人口の都市集中(1920年〜1940年)
(人口百分比)
総人口(千人) 人口5万以下の
郡部在住人口比
人口5万以上の
市部在住人口比
合計(%)
1920 大正9年 55,391 84.1% 15.9% 100.0%
1925 大正14年 59,179 79.5% 20.5% 100.0%
1930 昭和5年 63,872 75.2% 24.8% 100.0%
1935 昭和10年 68,662 69.2% 30.8% 100.0%
1940 昭和15年 72,540 65.4% 34.6% 100.0%
※「明治以降本邦主要経済統計」日本銀行統計局作成

1923年、突如として関東大震災が発生し、京浜地区は壊滅的な被害を受けた。東京の被害は甚大で、東京市社会局調査課のまとめでは全壊・焼失家屋は40万7900戸、震災前総戸数の6割4分、罹災人口は154万5029人、震災前人口の6割5分、死者7万1614人。交通・通信機関は麻痺し、電力・ガスもストップ。新聞社も全て発行不能で、公共的なニュース報道も途絶。住民は極度の社会的な不安に落ち入った。バラック小屋造りから帝都復興が始まる。人口も都市へ急激に集中する。表の「人口の都市集中」に見られるとおり人口5万以上の市部への集中は震災以降急激に増加する。その大部分が工場労働者ともに、会社員、銀行員、店員、官公吏、教員などの勤め人とその家族であった。都市の生活様式も現代的な色合いを帯びる。同潤会のアパートが出来るのもこの時期である。東京の地下鉄開通(浅草〜上野)は1927年、大阪は1935年に開通(梅田〜心斎橋)する。
ラジオ受信者数(1925年〜1937年)
受信契約数
1925 大正14年 258,507
1927 昭和2年 390,129
1929 昭和4年 650,479
1931 昭和6年 1,055,778
1933 昭和8年 1,714,223
1935 昭和10年 2,422,111
1937 昭和12年 3,584,462
※「日本放送史」日本放送協会編1965年

マス・メディアの分野でも新しい変化が起きる。新聞は読者層の底辺を拡大し、大衆新聞化し、講談社「キング」が1925年の創刊以降大量部数を維持し、改造社が「現代日本文学全集」を発行し、円本ブームを起こす。映画=活動写真も1931年(昭和6年)に邦画初のオール・トーキーもの「マダムと女房」(松竹)が製作上映された。1931年の映画館数は1449館あり、年間入場者数は164,717,249人。新聞折込広告の得意先には映画館もあった。ラジオは1926年に日本放送協会が設立され、1928年(昭和3年)11月には全国中継放送網が完成する。表の「ラジオ受信者数」を見ると急激な広がりが分かる。百貨店も昭和に入り普及する。表の「デパートの普及状況」は東京や大阪のみでなく、地方都市にも新設されている。伊藤重治郎は著「百貨店の趨勢」(1934年)で震災前と震災後のデパートの変化を、デパートの顧客が有産階級から大衆に変わり、デパートの営業サービスも高踏的から大衆的に転じ、商品も輸入品中心から国産品中心に変わり、地階売場や特売品売場が拡張され豆腐や納豆のような大衆的な日常商品までも扱うようになった。建物が巨大化して売場面積が拡張され、エレベーターやエスカレータなど構造設備も近代化された。三越や松坂屋のような呉服屋がデパートに発展して行くタイプではなく、東京の美松や京都の丸屋のように最初からデパートと創業したものや大阪の阪急百貨店や東京の東横百貨店などの鉄道企業がデパートをターミナルに進出している。
参考までに表「戦前の諸車保有台数」を付加した。自動車の普及に対し、人力車や荷車、馬車の減少が良くわかる。

デパートの普及状況(1924年〜1932年)
都市 開設デパート名
1924 大正13年 東京 松坂屋銀座支店
1925 大正14年 東京 銀座松屋
大阪 阪急マーケット
名古屋 松坂屋移転拡張
大阪 大丸改装
福岡 玉屋
1926 大正15年 神戸 三越支店
函館 森屋
川崎 小宮
東京 新宿ほていや
1927 昭和2年 東京 三越本店修築完了
大阪 新京阪マーケット
神戸 大丸支店
1928 昭和3年 京都 丹神マート
横須賀 雑賀屋
福井 だるまや
札幌 五番館
1929 昭和4年 東京 丸菱
横浜 越前屋
都市 開設デパート名
1929 昭和4年 広島 福屋
東京 新宿松屋
大阪 阪急百貨店
1930 昭和5年 熊本 千徳デパート
熊本 ヤギ百貨店
釧路 鶴屋
大阪 島屋南海店
東京 三越銀座店
東京 三越新宿店
金沢 三越支店
1931 昭和6年 八幡 玉屋
東京 美松
東京 地下鉄ストア
東京 松屋浅草支店
高松 三越支店
門司 平井屋
1932 昭和7年 札幌 三越支店
静岡 松坂屋支店

戦前の諸車保有台数(1924年〜1935年)
年 (年末) 自動車 自動
自転車
自転車 人力車 荷車 荷牛車 馬車
乗用 貨物用 荷積用 乗用 乗合
1924 大正13年 27,233 18,951 8,282 6,067 3,690,000 105,715 1,923,000 63,746 310,474 273 4,697
1925 大正14年 31,881 22,456 9,425 8,654 4,142,000 82,849 1,978,000 68,517 313,282 309 4,258
1926 大正15年 40,070 27,973 12,097 9,950 4,597,000 77,321 1,963,000 82,679 310,221 239 3,714
1927 昭和2年 51,762 35,775 15,987 13,016 4,844,000 69,272 1,918,000 86,912 316,216 184 3,135
1928 昭和3年 66,379 44,660 21,719 13,998 5,112,000 59,156 1,894,000 86,222 319,691 194 2,701
1929 昭和4年 80,370 52,829 27,541 5,602,000 50,057 1,813,000 93,932 369,363 168 2,273
1930 昭和5年 88,708 57,827 30,881 5,779,000 42,635 1,808,000 98,690 308,914 262 1,913
1931 昭和6年 97,256 62,419 34,837 6,000,000 36,618 1,753,000 94,960 296,560 117 1,428
1932 昭和7年 100,221 64,282 35,939 6,356,000 32,026 1,691,000 93,445 297,918 102 1,455
1933 昭和8年 104,932 66,733 38,199 6,524,000 27,071 1,628,000 97,417 302,164 124 1,309
1934 昭和9年 112,540 70,481 42,059 6,895,000 23,247 1,566,000 101,041 299,702 107 1,213
1935 昭和10年 120,926 74,008 46,918 7,304,000 20,187 1,569,000 115,197 297,761 109 974
広告について
昭和に入り、都市への人口集中は新聞の部数増と大衆化をもたらした。新聞折込広告も新聞の専売制による新聞銘柄指定などでメディア価値を高め、広告主の需要を喚起した。折込広告の得意先には百貨店、銀行、映画、そしてメーカーの広告が目立ち、当時の大口利用の一例では「日活、松竹、松坂屋、島屋、西川、伴伝、ヤマサ醤油、キッコーマン醤油など一流会社の広告を取り扱った。取り扱い範囲も本土及び朝鮮、台湾、樺太にまで及んだ」と記録されている。その以外の広告主には講談社、寿屋、武田薬品、藤沢樟脳、私鉄の観光宣伝、生命保険会社などが折り込んだ。折込広告の料金は、昭和6年の内田誠著「実際広告の拵え方と仕方」や昭和9年の長岡逸郎著「チラシ広告の作り方」にも載っているが、東京市内外では1000枚で金80銭(但し菊判まで)、大阪は東京に比べて高く1000枚で1円20銭。京都・名古屋・神戸は同じ1円が標準。
折込広告以外の広告メディア概況を挙げると、新聞広告では震災直後の被災した市民や企業・事務所の立ち退き先や尋ね人などで案内広告が殺到し、次に復旧を知らせる“復興広告”が続いた。参考までに新聞広告に関した表を付けた。「新聞広告出稿量と業種別シェア推移」では薬品広告が多いのが分かる。1928年(昭和3年)の出版のシェアが上がったのは円本ブームの影響によるもの。「広告行数上位15紙」「案内広告行数上位20紙」は1924年と1936年の比較を見ていただきたい。先に【新聞について】で記載した新聞のページ数の推移も参考にしてほしい。「大阪朝日新聞広告会社ベスト5」には「電通」「博報堂」の名前も出ている。新聞広告での大幅な変化は、1928年(昭和3年)4月1日付紙面から「大阪朝日」「東京朝日」「大阪毎日」「東京日日」の4紙が13段制を実施したことだ。一時大混乱に落ち入ったが、増段によって実質的な広告増収が図れたことは大きい。平行して「広告浄化運動」も活発化する。「東京朝日」は1933年(昭和8年)6月1日、広告掲載制限事項(10ヶ条)を定め、本格的な広告浄化を実施した。広告媒体としての新聞の社会的責任が自覚され始めた。

新聞広告出稿量と業種別シェア推移(1927年〜1935年)
紙数 広告出稿量 薬品 化粧品 出版 食料品 雑品 雑件
1927 昭和2年 116 206,244 22.1% 15.9% 13.6% 10.5% 3.5% 10.6%
1928 昭和3年 115 223,359 22.9% 15.4% 16.0% 9.3% 3.6% 10.8%
1929 昭和4年 115 222,026 25.3% 15.3% 12.2% 10.4% 4.5% 10.6%
1930 昭和5年 115 217,919 23.8% 16.7% 12.8% 11.1% 5.0% 10.2%
1931 昭和6年 114 216,365 23.7% 17.9% 12.4% 10.9% 4.5% 9.9%
1932 昭和7年 111 213,804 25.1% 16.4% 12.7% 9.5% 4.8% 11.1%
1933 昭和8年 111 231,021 24.4% 14.9% 14.7% 9.5% 5.4% 11.4%
1934 昭和9年 111 249,268 24.6% 16.7% 12.4% 8.9% 5.3% 11.4%
1935 昭和10年 105 244,261 26.4% 14.5% 11.0% 9.2% 6.5% 11.9%
※広告総覧による単位:1000行。

広告行数上位15紙の行数と公表広告料
順位 1924年(大正13年) 1936年(昭和11年)
新聞名 広告料(円・銭) 掲載行数(万行) 新聞名 広告料(円・銭) 掲載行数(万行)
1 大阪毎日 1.80 480.4 大阪毎日 2.00 761.1
2 大阪朝日 1.80 471.9 大阪朝日 2.00 757.4
3 東京朝日 1.30 378.4 東京日日 1.70 731.8
4 東京日日 1.30 378.2 讀賣新聞 1.70 701.7
5 時事新報 1.40 376.1 東京朝日 1.70 697.3
6 北海タイムス 1.00 322.3 時事新報 1.70 579.9
7 報知新聞 1.50 293.3 報知新聞 1.70 555.5
8 小樽新聞 1.00 288.0 満州日日 1.20 534.7
9 都新聞 1.30 283.9 名古屋新聞 1.50 505.0
10 満州日日 1.30 279.7 新愛知 1.50 461.8
11 福岡日日 1.00 273.4 北海タイムス 1.00 443.1
12 遼東新聞 1.30 270.0 京城日報 1.50 404.2
13 國民新聞 1.30 269.3 福岡日日 1.20 402.6
14 名古屋新聞 1.20 260.0 都新聞 1.50 390.4
15 新愛知 1.20 253.8 中外商業 1.80 385.9
※日本電報通信社「新聞總覧」より

案内広告行数上位20紙の案内広告行数
順位 1924年(大正13年) 1936年(昭和11年)
新聞名 掲載行数
(万行)
新聞名 掲載行数
(万行)
1 時事新報 66.5 讀賣新聞 93.9
2 東京日日 32.7 報知新聞 87.4
3 都新聞 30.4 都新聞 73.6
4 報知新聞 29.7 東京朝日 70.8
5 國民新聞 20.3 東京日日 67.8
6 中外商業 18.4 時事新報 67.6
7 東京朝日 15.1 中外商業 63.0
8 大阪毎日 14.6 大阪朝日 43.5
9 大阪朝日 13.5 大阪毎日 41.9
10 神戸新聞 13.5 神戸又新 26.3
順位 1924年(大正13年) 1936年(昭和11年)
新聞名 掲載行数
(万行)
新聞名 掲載行数
(万行)
11 新愛知 12.9 新愛知 25.6
12 名古屋新聞 10.2 神戸新聞 24.0
13 福岡日日 9.8 東京毎夕 23.1
14 萬朝報 9.0 名古屋新聞 22.6
15 東京毎夕 7.7 國民新聞 16.7
16 中央新聞 6.4 福岡日日 13.6
17 やまと新聞 5.6 大阪時事 12.8
18 河北新報 4.5 京都日日 10.8
19 大阪時事 4.1 夕刊大阪 9.5
20 東京毎日 2.8 満州日日 9.0
※日本電報通信社「新聞總覧」より

大阪朝日新聞広告会社ベスト5(1927年〜1934年)
年 月 電通 萬年社 博報堂 京華社 旭広告 金水堂
取引金額 シェア 取引金額 シェア 取引金額 シェア 取引金額 シェア 取引金額 シェア 取引金額 シェア
1927年3月 79,429 15.1 75,524 14.3 85,454 16.0 37,327 7.1 38,535 7.3    
1927年6月 61,319 12.5 63,368 12.9 101,828 20.7 37,548 7.6 34,042 6.9    
1930年11月 96,356 19.5 79,401 16.0 65,009 13.1 35,446 7.1     29,553 5.9
1931年1月 90,975 18.4 78,278 15.8 39,504 8.0 37,021 7.4 34,189 6.9    
1931年6月 112,710 21.3 80,337 15.2 59,256 11.2 48,117 9.0 36,614 6.9    
1932年1月 72,502 15.0 65,774 13.6 45,137 9.3 28,755 5.9 47,354 9.8    
1932年6月 117,993 24.2 72,045 14.8 43,307 8.9 27,883 5.7 49,166 10.0    
1933年1月 99,548 20.2 74,520 15.1 53,831 11.0 25,135 5.1 33,664 6.8    
1933年6月 126,108 23.2 84,325 15.5 56,862 10.5 32,448 6.0 30,793 5.7    
1934年1月 104,936 19.7 76,049 14.3 48,537 9.2     31,511 5.9 25,052 4.7
1934年6月 112,250 20.6 85,402 14.5 55,023 9.4     40,469 6.9 34,582 5.9
(単位)取引金額:円、シェアは%。

雑誌広告も婦人雑誌を中心に順調な伸びを示している。1934年(昭和9年)の婦人雑誌年間売上部数は2000万部に迫る勢い。1927年を100とすると、1934年は209という成長率を上げている。電通の「広告五十年史」に1933年総広告費の内訳の記述がある。総広告費合計は1億1100万円、新聞は5500万円(シェア49.6%)、雑誌は1100万円(9.9%)、ポスターは2000万円(18.0%)、屋外・交通広告は500万円(4.5%)、小売店は2000万円(18.0%)。
屋外広告はネオン看板が主流になる。1926年(大正15年)以降から急速に普及する。1929年には三越がネオンを掲げ、最盛期は1933年〜35年ごろ。アドバルーンも1930年前後から始まる。国鉄の交通広告も活発化する。表「国鉄の広告収入」を見ると1928年以降急激な伸びを示している。宛名広告、ダイレクトメールも盛んに利用されている。表「銀座小売商の広告方法」には宛名広告と新聞折込が良く使われていたことが分かる。その他には、チンドン屋、マネキン・ガール、ショー・ウィンドなどがある。

次回は昭和11年〜20年時代を採り上げる。

国鉄の広告収入(1922年〜1936年)
広告収入
(円)
備考
1922 大正11年 46,860  
1923 大正12年 41,506  
1924 大正13年 11,975 8月で取り扱い廃止
1927 昭和2年 132,921 9月から取り扱い再開
1928 昭和3年 313,520  
1930 昭和5年 582,238  
1932 昭和7年 485,183  
1934 昭和9年 517,579  
1936 昭和11年 607,552  
※「日本国有鉄道百年史」日本国有鉄道1971年
銀座小売商の広告方法ベスト・スリー
※1936年(昭和11年10月)
  一里以内 一里以上 合計
宛名広告 41 41
新聞折込 1 23 24
引札 11 11
合計 1 75 76
※「京橋区史」1942年

昭和初期の新聞折込広告
[1] 本舗遊佐一貫堂 [2] イマズ蚊取香(表) [2] イマズ蚊取香(裏) [3] ヒゲタ醤油
[4] 浅草橋通り大丸屋呉服店 [5] 浅草広小路電車通り長崎屋呉服店 [6] 神田明神下伊勢丹 [7] 東京上野松坂屋
[8] 上野松坂屋 [9] 大阪長堀橋高島屋 [10] 東京京橋島屋呉服店装飾部 [11] 宮城県古川「見龍」青沼彦治
「増田太次郎コレクション(オリコミサービス所蔵)」より

[1]  本舗遊佐一貫堂:薬種メーカー広告  昭和5年「特売 婦人病の塩竃さふらん湯。」
[2]  イマズ蚊取香:殺虫剤メーカー広告 昭和5年「専売特許イマヅ蚊取香大懸賞。」(表と裏あり)
[3]  ヒゲタ醤油:醤油メーカー広告 年代不明「おいしくて割がきく。」
[4]  浅草橋通り大丸屋呉服店:夏衣大売出し広告 年代不明「お買上金額5円以上に反物を一反進呈。」
[5]  浅草広小路電車通り長崎屋呉服店:夏衣福引大売出し広告 年代不明「福引券進呈方法は金3円以上お買上福引券1本で更に金3円を増す毎に1本追加。空籤なし。」
[6]  神田明神下伊勢丹:中元御贈答品大売出し広告 年代不明「7月1日からの売出し。50銭から10円までを各円均一。」
[7]  東京上野松坂屋:夏の呉服雑貨手持品大見切広告 年代不明「春物の処分と夏物準備の内覧会。」
[8]  上野松坂屋:歳暮均一デー広告 年代不明「12月8日より均一値段売出し。」
[9]  大阪長堀橋高島屋:優良雑貨はんぱ物デー広告 年代不明「3日間限り、お一人様一種一点限り売出し。」 (夜9時までの夜間営業)
[10]  東京京橋島屋呉服店装飾部:洋家具の一大奉仕広告 年代不明
[11]  宮城県古川「見龍」青沼彦治:酒造メーカー広告 昭和4年「酒類味噌醤油醸造元」
新聞折込広告史(昭和初期)年表
年号
西暦/和暦
折込広告に関する事項 新聞販売・新聞広告に関する事項 その他のメディア 政治・経済・社会
1926/
大正15年
昭和元年
折込広告盛況に向かう。折込料金は1枚につき1厘。 新聞代(1ヵ月)1円。
東京日本橋の白木屋百貨店、ネズミ1匹5銭で買い上げるとの新聞広告を出す。
上野公園で東京日日新聞社主催こども博覧会開催。
(社)日本放送協会(NHK)設立、加入者30万人、8割は都市を中心。
『広告界』創刊。
『アサヒカメラ』創刊。
マツダランプが国産ネオンを開発。
東京の白木屋がローマ字の店名ネオンを点灯。
日本労働組合同盟結成。
地下鉄上野〜浅草間開通。
改造社『現代日本全集』刊行、円本時代始まる。
円タク・円本の流行。
映画常設館1092軒、年間入場者1億6千万人。
自動車の登録台数3万8693台。
大正天皇没(12月25日)。
モダンガールに断髪流行。アッパッパ(簡単服)流行。
対米為替相場100円=49ドル。
同潤会、東京・向島に初の公営鉄筋アパートを完成(水道・電気・ガス・水洗便所をもつ本格的近代アパート)。
1927/
昭和2年
変型チラシ流行。自動車、飛行機などからの撒布、チンドン屋利用などの配布方法多様化。 円本広告が各紙に掲載される(1928年がピーク)。 岡本一平が福助足袋の漫画広告を描き、以後漫画による広告が盛んになる。
電車の車内広告が始まる。東京の中央線・山手線・京浜線に吊るすことが許可され、山手線の中吊りで1ヵ月640円。
金融恐慌起こり銀行の休業続出。
「立憲民政党」結成(総裁浜口雄幸)。
芥川龍之介自殺。
東京地下鉄道(株)浅草〜上野間開通(日本初の地下鉄)。
島屋に日活女優のマネキンが現れる。
三越でファッションショーを開催(ファッションショーの始まり)。
新潮社の「世界文学全集」、改造社の「日本文学全集」など1冊1円の円本が続々と出版(1929年まで)。
「ナショナル」の商標ランプ発売。
1928/
昭和3年
合資会社“丸北”折込広告社(オリコム)設立、京橋区元数奇屋町3-7(現、中央区銀座5-5)、資本金18000円、社員8名。得意先は講談社、寿屋、高島屋、武田薬品、西川、野田醤油、藤沢樟脳、伴伝、松坂屋、私鉄各社の観光宣伝、生命保険会社など。藤沢樟脳の折込枚数は百万部。
15大新聞の月間の折込取り扱い枚数約100万枚。
第1回普通選挙を前にして、立憲民政党と立憲政友会が政見広告を1ページ全面広告で掲載。
有力新聞が13段制になる。広告主から広告料の据え置き要求が出る。
朝日新聞社、東京・大阪両社屋の側面に流動式電光ニュースを設置。
新聞販売店、東京市内に約320店、隣接町村に約260店。
新聞広告主番付:東横綱=講談社、大関=ミツワ石鹸、関脇=改造社、西大関=森下仁丹、関脇=クラブ太陽堂。森永、キッコーマン、カルピスはやっと入幕。
“丸北”折込広告社、東京気球広告社(のち気球部)併設。
国鉄が有料広告扱い開始、第1号に上野松坂屋のポスターが車内に掲載。
普通選挙法による最初の衆議院議員総選挙実施。
三・一五事件、済南事件。張作霖爆死事件等起こる。
上野公園で大典記念国産振興博覧会開催。
「日本商工会議所」設立。
日米直通電信開通。
治安維持法改正緊急勅令公布施行。
内務省警保局拡充、全県警察部に特別高等警察課を設置(特高警察、全国的に完備)。
東京〜大阪間に初の旅客機が飛ぶ。
横浜の崎陽軒が折箱入りのシューマイを発売。1箱50銭。
1929/
昭和4年
見切品・特価品・蔵払い・棚ざらいなどの名で特売・廉売が日常化し折込広告が使われる。
雑誌「実業界」が「チラシ広告研究号」を刊行。
「東京日日新聞」、「先ず健康」の標語で全国的に健康増進運動を展開。わが国初のプレスキャンペーン。
徳富蘇峰「国民新聞」を去る。
「読売新聞」に運動欄が登場。
“丸北”折込広告社、浴場広告業界に参入し、上野松坂屋のポスターを取り扱う。
「少年倶楽部」の発行部数が50万部に。その後も昭5年1月63万部、6年1月67万部、11年1月75万部と、驚異的部数を誇る。
大学卒業者の就職難深刻となる。
対米為替相場100円=44ドル台に下落。
寿屋(現、サントリー)、初の国産ウィスキーを発売。1本4円50銭。
米の発声映画「進軍」、新宿武蔵野館で封切り(トーキー映画時代の始まり)。
ニューヨーク株式市場大暴落。
内務省、初の全国失業状況調査発表(「暗黒の木曜日」世界恐慌始まる)。
大阪の阪急百貨店が開店(初のターミナル・デパート)。
上野松坂屋で初のエレベーターガール。
「日本広告連盟」結成。
「日本広告倶楽部」設立。
世界一周飛行のドイツ飛行船ツェッペイン伯号来日。
エロ・グロ・ナンセンス風靡。
東京市の人口229万人、男126万5500人、女102万9100人。
1930/
昭和5年
神田新聞販売組合、淀橋大久保新聞組合、折込料金の統一決める。都北新聞販売組合、折込料金の一定等申し合わす。 新聞の裏表を使った新しい広告(透かし広告)が登場。
電通が「新聞広告奨励会」を設置。
「大阪朝日新聞」、各県別各地方版制を完成。
「日本新聞聯盟」結成。
朝日新聞社主催の日本一健康優良児表彰制度がスタート。
「読売新聞」に「釣り欄」「競馬欄」登場。「朝日新聞」には「家庭欄」登場。
気球にとりつけた字幕がネットに変わり、アドバルーンが普及。
リンドバーグや米国のプロ野球の来訪を広告に利用する。
東海道・山陽線などの列車内で広告の掲示が始まる。ただし1車両3枚、広告内容は名勝地風景写真などとの規定つき。料金は1枚1年間で40円・20円・10円の3等級。
生糸暴落。
東京〜神戸間に特急つばめ号の運転開始(8時間55分)。
第2回国勢調査実施(内地人口6445万人、外地2594万人、東京市207万人)。
浜口首相、東京駅で狙撃さる。
米価等農作物価格暴落し、農村の危機深刻化。
大連で広告祭が行われる。
第1回国際広告写真展で「福助足袋」が1位になる。
「日本広告協会」結成。
銀座4丁目に三越開店。新宿3丁目に伊勢丹進出。
1931/
昭和6年
島屋、10銭均一ストアを57ヵ所に開設。チェーンストアの始まり。 「都新聞」など満州事変勃発の第一報を落とし、部数が半減。
8月、上越線が開通、東京各紙が新潟県に侵入、地元新聞と販売合戦を演ずる。
報知新聞社が開衿シャツのデザインを懸賞募集。開衿シャツの流行が始まる。
「東京朝日新聞」が「ラジオ面」を新設。「東京日日新聞」も。
「東京朝日新聞」が「女性相談欄」を開設。
学資難の女学生が街頭の新聞売子に進出、このため男子売子が締め出される。
読売新聞社が夕刊発行。
ヘチマコロンがトーキーPR映画「ヘチマは踊る」を制作する。
東京・京橋の第一相互屋上に電光ニュースが始まる。
六郷河畔にコロムビアレコードの大広告塔が建つ。
銀座にゼネラルモーターズのネオンが上がる。
スカイサイン(電光ニュース)登場。
“丸北”折込広告社、明治節(現、文化の日)祝賀花電車を製作、業界に一大センセーションを巻き起こす。
7月ラジオの受信契約数は100万台を突破。
清水トンネル開通(全長9702m、世界最長)、上越線新前橋〜宮内間全通。
満州事変起こる。
NHK臨時ニュースで満州事変勃発を流す(臨時ニュースの第1号)。
対米為替相場100円=36ドル台に低落。
東北の冷害、凶作などで農村不況深刻化。
松下電器、真空管ラジオ製造開始。
軍部の言論機関に対する干渉激化する。
1932/
昭和7年
“丸北”折込広告社、合資会社から株式会社に改組、資本金を10万円に増資。扱い枚数は月平均300万枚。 暮れに高島屋が4ページ大の広告を出稿。
大阪の寿毛加、「スモカ歯磨」を発売。喫煙者用として人気を集める。
森下仁丹が浅草に大広告塔を建てる。“丸北”折込広告社、ドイツ製「宣伝ロボット」を購入。
日本統治下の台湾でアジアで初のラジオ広告放送。丸見屋、ライオン、キッコーマン、森永、味の素、七欧無電等が参加。
満州国建国宣言。
血盟団事件
五・一五事件起こる(政党政治の終局、軍部の台頭)。
対米為替相場100円=25ドル台に低落。
東京市、隣接町村を合併し20区を新設(35区総人口約500万人の大東京市実現)。
東京日本橋の白木屋百貨店火災(14名焼死)。
全国132新聞社、満州国独立支持の共同宣言発表。
「鉄道広告業組合」結成、10社。
1933/
昭和8年
  東京朝日新聞「広告掲載制限事項」を作成し、6月1日から実施。 ビクターが東京新橋に犬印の、日本コロンビアは大阪・南海駅前に大ネオン塔を建てる。
国鉄、駅構内洗面所の鏡に広告の取り付けを始める。同時に時刻表など印刷物にも広告が載る。
東北三陸地方に大地震、大津波発生(三陸地震津波)。
国際連盟より脱退。
関東軍、長城線を越えて華北進攻作戦開始。
軍部のファッショ化すすむ。治安維持法による起訴者1280人を越える。
大阪市営地下鉄の梅田〜心斎橋間開通。
栄養剤の広告が盛ん。
信濃毎日新聞に軍部の強権圧迫(聯隊区司令官の指揮下にあって会員8万と呼号する信州郷軍同士会が、「信毎」の不買同盟、桐生悠々と三沢背山の退社、ならびに謝罪文掲載を要求)起こる。
1934/
昭和9年
百貨店と映画会社のタイアップ折込広告が目立つ。 新聞発行部数1000万部を超える。
読売新聞社主催の日米野球戦、ベーブルースも参加。
味の素が電球付きアドバルーンを上げ、夜間灯明で人気が出る。
神戸市内のデパートや商店がスポンサーになって、わが国初のタウン誌「神戸っ子」が創刊される。
「時事新報」武藤山治社長が凶漢に狙撃される。
函館市大火、死者1500人、家屋全焼2万3600戸。
帝人疑獄。
満州国帝政実施。
室戸台風で関西地方に大被害(死者約2500人、家屋流出2300戸、全壊3万4500余戸)。
陸軍省新聞班、パンフレット「国防の本義とその強化の提唱」を配布し広義国防の強化と軍部の政治関与を主張。
冷害による東北地方大凶作などで農村の不況深刻化。
地下鉄京橋〜銀座開通。
電通が「広告研究」を創刊。
「日本団体生命保険(株)」設立。
自動車製造(株)、「日産自動車(株)」と改称(小型自動車ダットサンの量産開始)。
東京市の人口566万3350人。
1935/
昭和10年
折込広告が盛んになる。 大阪毎日新聞のスクリーン広告競技でマルキン醤油が1位になる。
名古屋新聞に三上於菟吉が広告小説「華やかな収穫」を連載。蜂ブドー酒、森永チョコレート、スマイル、エビオス、ヤマサ醤油、ライオン歯磨、明治製菓、ミツワ石鹸、ヘチマコロンから井上英語講義録まで28の商品が登場。
「国民新聞」に続いて「都新聞」が小型天気図を掲載。
土地分譲広告が多くなる。
“丸北”折込広告社、マネキン、楽隊、チンドン屋を使って日活映画「忠臣蔵」「大菩薩峠」の街頭宣伝、電光ニュース、飛行機を利用した広告(文字網、ビラ散布)などを取り扱う。
満州への移民始まる。
「東京中央卸売市場」開設。
(株)秀英舎、日清印刷(株)と合併し「大日本印刷(株)」と改称。
第4回国勢調査実施(総人口9769万人、内地6925万人)。

<参考文献>
「折込広告のあゆみ 創立20周年記念」東京都折込広告組合
「鯉登寿雄 折込広告と歩んだ五十年」首都圏折込広告組合協議会
「オリコミ七十年抄史」オリコミ(現オリコム)
「広告会社の歴史」斎藤悦弘著
「放送の五十年」日本放送協会編
「広告」八巻俊雄著
「日本広告史年表」八巻俊雄編
「チラシで読む日本経済」澤田求・鈴木隆祐著
「折込広告 歴史と役割」坂上康博・橋本和孝・小池保夫著
「日本生活文化史 市民的生活の展開」和歌森太郎編
 
「完結 昭和国勢総覧」東洋経済新報社発行
「日本洋服史」洋服業界記者クラブ著
「日本新聞通史」春原昭彦著
「日本広告発達史」内川芳美編
「新聞販売概史」日本新聞販売協会
「朝日新聞社史 大正・昭和戦前編」朝日新聞社
「朝日新聞販売百年史(東京編)」朝日新聞社
「東京百年史 年表」東京都編
「20世紀年表」毎日新聞社



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